集団的自衛権の行使を容認する閣議決定にあたって ~考えなければならない3つのこと

集団的自衛権の行使を容認する閣議決定にあたって
~考えなければならない3つのこと


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 昨日7月1日、安倍晋三内閣は、憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を認る閣議決定を行った。これは、日本国憲法の平和主義を定めた第9条の核心部分を骨抜きにする暴挙である。アジアにおける戦争の危険性を高める挑発行為ですらある。このような政府の横暴を止められなかったことを、私は、自分の子どもやその後に続く世代に対して申し訳なく思う。これからの若い世代は、今までよりもはるかに高い戦争の危険性と隣り合わせて生きていかなければならなくなる。

 今回の閣議決定を批判する各論については、岩波書店『世界』7月号所収の「集団的自衛権 事実と論点」(上。集団的自衛権問題研究会)をご覧いただきたい。また、7月8日に発売になる同誌8月号には、下として後編が掲載される予定である。

 各論はそこに譲るとして、ここでは、私たちが考えなければならない3つの大きな論点について問題提起したい。

 第一に、国際社会における武力行使という問題である。

 一般に国連加盟国は、国連憲章の下で武力行使を制約されている。しかし憲法9条をもつ日本は、さらに厳しく武力行使への制約を自らに課してきた。これをプラスととらえるのか、マイナスととらえるのか。外務省は、これをマイナスととらえてきた。憲法9条による追加的制約を取り除き、日本が他の諸国と同等の条件の下で武力行使をできるようにするということが、政府にとっての解釈改憲の主眼であった。その立場に立てば、「普通の国」「一人前」になるということになる。
 これに対して私は、日本が武力行使に対して特別に重い制約を受けてきたことは、日本にとっても世界にとってもプラスであったと考えてきた。そして、それを手放してしまったことは、とりかえしのつかない愚行であったと考える。
 武力を行使するということは要するに戦争をするということである。それは大変危険で、痛ましく、恐ろしく、むごたらしい結果をもたらすものである。戦後70年近くが経ち、日本社会において戦争の記憶が薄れ、武力行使ということが一般名詞として軽々しく語られている。私はまず、このことに強い警鐘を鳴らしたい。戦争体験者の生の声が聴ける今のうちに、私たちは改めて、戦争が人間に何をもたらしたかをしっかりと想起すべきである。武力行使に関するすべての議論は、この恐ろしさの認識を出発点にしなければならない。
 国際紛争を解決するために、武力行使が最終的に不可避になる局面がありうるということを私は認める。しかし、それは極力避けるべき最後の最後の手段でなければならない。国連憲章では、平和への脅威に対しては、安保理のもとで、国連の秩序の中で管理された武力を行使すること(集団安全保障)が想定されている。しかしそのような想定とは裏腹に、今日の世界では、アフガニスタンにせよイラクにせよ、国際法上の根拠が定かでない戦争がくり返されている。テロと呼ばれる非国家主体の暴力もあいまって、戦争の形態は多様化している。今日の世界は、国際法の秩序が行き届かない戦乱の世なのである。
 そのような中でひとたび戦闘行為に足を踏み入れれば、抜け出せない泥沼にはまる危険性が高い。戦争は、必要最小限度といって途中で撤退できるようなものではない。
 だとすれば、仮に独善的な一国平和主義と非難されようが、「日本は憲法上の制約によって海外で武力行使をできない」と主張することは、日本国民を戦争のリスクから守るきわめて効果的な手法である。実際そのような手法を使って、これまで日本は数多くの戦争の危機にさらされることを自ら回避してきた。政府はなぜ、このように日本国を保護するツールをわざわざ葬り去り、日本国民の命を世界の戦乱の中にさらけだそうとするのか。

 次に、このような主張は日本のわがままであって「国際的な責任を放棄するものである」との批判に答えよう。
 そこでいう「国際的な責任」とは一体何か。紛争地でくり広げられている人権侵害を止め民間人を保護するために国際的な介入が必要であるという議論であれば(これは集団的自衛権ではなく集団安全保障の話であるが)、重要な問題提起であり、しっかりと議論するべきであると私は考える。しかしそれには、国連PKOの強化や、国際的権限をもつ人権監視ミッションの展開といった総合的な議論が必要であり、単なる武力行使の容認論・拡大論で解決する話ではない。今回の安保法制懇や与党協議で、そのような紛争解決・人道目的での日本の責任をめぐる議論がなされた痕跡はない。ただひたすらに、武力行使のシナリオを拡大させ、武器使用の幅を広げる話ばかりが展開されてきた。
 一方で、米国政府が日本に対してより大きな軍事上の責任分担を求めていることは明らかだ。米国における軍事費の負担は限界に達しており、米国側に自らの経済的・人的負担を減らし、同盟国に負担を転嫁しようという政治的意図があることははっきりとしている。国際的な責任を果たすため武力行使に参加するということは、実際には、このような米国からの要望を日本が受け止めていくということにつながるだろう。
 そのことで日米は対等なパートナーになれるという議論もある。しかしそもそも、今日の日米安保条約は、日本が米軍基地の負担を受けるということと、米国が日本を防衛するということの取引関係から出発したものであった。米側からの要望をさらに受け入れ対等な関係をめざすというのであれば、まずは在日米軍の負担をどのように減らすのかという話がなければ筋が通らない。

 今世紀の世界では、軍事力で安全保障を追求すること自体の限界が明らかになっている。災害や疫病対策など「人間の安全保障」を中心に据えた非伝統的安全保障が、軍事中心の古典的な国家安全保障の課題と肩を並べるくらい重要な課題になっている。世界一の軍事大国である米国においてすら、ソフトパワーや、軍隊が果たす災害や人道面での活動への関心が高まっている。
 こうした世界的な潮流をとらえれば、日本が他の諸国よりも武力オプションを限定的にとらえてきたことは、決して欠損や不備ではなく、世界のフロンティアに立てる潜在性を持ってきた。非軍事の非伝統的な安全保障の分野で世界を主導し、新しい国際アジェンダや規範を設定できる可能性があった。たとえば多国間の軍縮・軍備管理においては、日本が比較的に軽武装国であるということがむしろ道義的優位性として働いて、交渉を主導し有利に運ばせることも可能であった。
 日本は、自ら課してきた特異な武力に対する抑制的規範を、国際的にプラスに生かすという創意工夫をせず、葬り去ってしまったのである。これは日本にとってのみならず、世界的な損失である。日本国の平和憲法は、単に日本のみならず、国際社会が体験した第二次世界大戦の惨害のうえに成り立ったいわば国際的法規だったからである。

 第二に、アジアにおける日本という問題である。

 安倍首相をはじめ自民党幹部は、集団的自衛権の行使を可能とすることによって、日米の作戦行動の緊密化がはかられ、もって「抑止力が高まり」「アジアにおける紛争は起きにくくなる」とくり返し主張している。しかし、抑止力とは、こちらから敵に対して攻撃する能力を高め、いつでも重大な打撃を加えられるとの威嚇を示すことによって、敵側に行動を思いとどまらせようという軍事理論である。抑止力を高めるというのは、平たくいえば、攻撃態勢を強化するということだ。
 つまりいわんとしていることは、端的にいえば、中国に対して日米の軍事的結束を誇示することによって、中国が日本に対して攻撃を加えることを思いとどまらせようということである。それによって中国が思いとどまるからアジアにおいて紛争は起きなくなるという主張だ。このような主張に、果たして信憑性があるだろうか。
 中国のような軍事大国と対峙するときに、最終的な備えとして軍事的な抑止力が必要であるという議論を私は完全に否定するものではない。しかしそれはあくまで、対話と信頼醸成を通じたふだんの紛争回避努力と一体となってバランスの取れたものでなければならない。
 安倍政権が行ってきたことをみれば、いったい、どこに対話があるのか。どこに信頼醸成があるのか。日中の領土問題の対立が、2012年の石原慎太郎都知事(当時)による唐突な尖閣「購入」宣言に端を発して、たいへんな緊張関係にまで高まっている今日、安倍首相はあえて相手を刺激するような靖国神社参拝を強行して、まるで対話をする気がないかのごとくである。歴史問題の長い経過をみれば、靖国参拝をするような首相と中国側が対話のテーブルにつけないと判断することは明らかであって、それが分かっていながら「対話の窓口は開かれている」などとうそぶいたところで、何の誠意もない。安倍政権になって一年半以上がたち、これだけ首脳外交が世界各地で展開されながら、隣国中国との会談が実現していないのは異常である。むしろ中国包囲の政治的思惑を含意するような外交ばかりが続けられている。
 そのような中で、今度は、集団的自衛権を容認し、日米の軍事的結束を強めて攻撃力を強化するというメッセージである。まるでケンカを売る一方ではないか。対韓国も同様である。慰安婦問題に関する河野談話を見直さないといっておきながら、その「過程検証」をあえて行って、予定していたかのように韓国側の強い反発を招いた。
 このような挑発を重ねつつ、軍事的な態勢も強化して、それで「アジアで紛争が起きにくくなる」というのはまったく根拠も信頼性もおけない議論である。このような安倍政権の姿勢によって、東アジアにおいては、日中の領土問題を一番のホットスポットとして、偶発的な軍事衝突の危険性がきわめて高くなっている。安倍首相をはじめとする自民党主導の挑発外交が、重大な責めを負うべきである。
 おそらくこの背景には、外務省の巧みな計算とはまったく別次元の、右翼・保守政治家安倍晋三とそれに連なる政治家たちのイデオロギーがある。敗戦国メンタリティを克服したいという「戦後レジームからの脱却」という観念である。この観念主導の対アジア外交(というより対アジア挑発)が、緊張の水位をきわめて危険なレベルにまで高めている。

 第三に、日本における民主主義の問題である。

 ほんらい憲法にしばられ、憲法に要請に従って行政を司るべき政府が、憲法の根幹部分の解釈を変えてしまうというクーデター的手法が平然ととられた。政府は「これから関連法整備をしていくから、立法府のしばりはそこでかけられる」という。しかしこれは説明になっていない。本来であれば、これから政府がつくりたい法律の数々は、憲法違反の法律であるのだ。憲法違反の法律を作るわけにはさすがにいかないので、作りたい法律を作る前に、憲法の解釈をかえてしまえという話である。
 行政府が立法権の根幹を握っているのと同じ状況である。ナチスの「全権委任法」すら彷彿とさせる。
 しかし問題は政府だけではない。政党も深刻な危機を抱えている。そもそも、民主党政権時代に下野している中で、保守主義への純化路線によって安倍晋三のような右翼政治家をトップに据えるしか起死回生の道がなかった自民党の問題がある。次に、平和の党として抵抗するのだという姿勢をいったんは見せたものの、一カ月そこらの密室の与党協議であまりにも安易な妥協をしてしまった公明党の問題がある。理念や旗印よりも、政権与党にいるという立場をとる以上は妥協するしかないという現実的打算が先行したことは明らかであった。
 野党もひどいものだ。最大野党の民主党は、そもそもこの問題について対抗軸を打ち出せなかった。その民主党の一部と、維新の会やみんなの党が集団的自衛権問題では安倍政権の応援団的な働きをした。そのことが公明党の抵抗の幅を狭めたという側面もある。明確な対抗軸を出している共産党と社民党については、勢力として弱小にすぎる。
 世論調査をすれば、国民の6割程度は憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に反対または懸念をしている。そのような国民の不安がはっきりとあるのに、それをすくって対抗軸を構築できない野党、あるいは与党内少数派とは、いったい何であろうか。政党政治の構図は、国民の意識とあまりにかけ離れているではないか。
 さらに問題は、政府や政党だけではない。国民の側も意識も深刻である。戦争に巻き込まれる漠たる不安を抱えながらも、「なんとなく景気も上向いているようだし」「中国や北朝鮮は深刻な脅威であるから」といって結局は安倍自民党を支持、というより「委任」してしまっている状況がある。お任せ民主主義とでもいうべき、委任の意識である。まさに国民の生命と財産に関わる戦争の問題が議論されているということを半分くらいは感じ取りながらも、そこで議論を深めて議員たちに働きかけていこうという政治的な意識や行動に結びつかない。まるでサラリーマンが会社の社長や執行部の愚痴を飲み屋で話ながら、そうはいっても「会社がつぶれてしまってもしょうがないから」といわんばかりに社長や執行部に白紙委任していく風潮である。「日本を取り戻す」という単純な「強いニッポン」というメッセージの中に、なんとなくさまざまな不安も回収されていってしまう状況すらある。私と同年代の40~50代の各界の中堅・リーダー層の中に、安倍的な「強いニッポン」スローガンを愛好していく(冷静な国際情勢の認識に裏打ちされるわけではなく)ような雰囲気があることもまた、現実の一側面だ。
 このような空気を私たちが変えていかない限り、委任はどこまでも進み、クーデター的手法は常態化し、最終的には「全権委任」にまでたどり着いてしまう。その危機意識を私たちはもう一度持ち直し、議会制民主主義を活用した市民社会総体としての反撃を試みなければならないと思う。

 では、何をするのか。いくつかの行動領域を提示したい。

 第一に、集団的自衛権に関しては、これから来る「関連法整備」の議論にしっかりと参加し、軍事行動の発動を少しでも強く抑制していく歯止め策をとること。
 第二に、安倍晋三批判をしっかりとすること。「安倍やめろ」という運動は的を射ていると私は思う。問題は安倍晋三一人ではないが、彼に連なる右翼ナショナリスト政治家の観念主導の政治手法に明確にノーをいっていくことが重要である。
 第三に、アジア近隣諸国との危機回避、信頼醸成の政策について、議論を深め、提案をすること。国際的な連携の中で、武力行使が発動されないようなさまざまなオプションを広げることが重要である。新しい閣議決定で示された武力行使の3要件の2つめは「他に適切な方法がない」である。私たちは「他に適切な方法」を次々と生み出していく必要がある。
 第四に、今秋から来春にかけて続く地方選挙のなかで、安倍的な政治手法に対する対抗軸をつくっていくような、市民社会の広範な連携をつくること。

 日本国憲法の平和主義に強い誇りを感じていた一市民として昨日は本当につらい一日であった。しかし、泣いていても愚痴をいってもしょうがないので、前を向いて活動していきたいと思う。以上の論考が、何らかの役に立てばと思う。

2014年7月2日
川崎哲

この記事へのコメント

クルック
2015年09月18日 21:29
すいません、はじめましてスペース御貸しいただければ(_ _)

自民党の西田昌司が「国民に主権がある事がおかしい」って言ったんですって

今のアメポチ自民党を表してるんでしょうね…

国民無視状態ですね

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