日本はどのような状況で核兵器を使用する(してもらう)つもりなのか

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 長崎での講演で「核使用は極限状況だけに」と岸田外相が発言して、被爆者らから反発が出たとの報道をみた(http://www.asahi.com/articles/DA3S10937775.html 朝日新聞「核使用『極限状況だけに』岸田外相発言 被爆者から反発」2014年1月22日)。
 限定的であれ核使用を容認するのは許せない、との気持ちは分かる。しかし報道されるように「核兵器使用の可能性を広くとっている国もあるが、少なくとも個別的、集団的自衛権に基づく極限の状況に限定するよう宣言すべきだ」と語ったのであれば、従来の態度よりは一歩前進とみるべきではないか。 前後の文脈が分からないので確定的なことは言えないが。

 昨年、核の非人道性の共同声明への署名をめぐって議論になったの は「いかなる状況下でも核を使用しない」という点だ。最初日本政府は、日本が米国の核兵器に依存する以上、そんな約束はできないと言ってきた。だが世論に押されて、長期目標としてのそのような理念には賛同する、と態度を変えた。
 米国の核抑止力に依存するというのが日本政府の公式の政策だから、つまり一定の状況下では米国に核兵器を使用してもらうということだ。そんなの許せないという気持ちをいったん脇に置き、ではどんな状況で核を使い、どんな状況では使わないのかという質問を冷静に政府に投げかける意味はある。
 岸田外相が「核使用は自衛のための究極の状況に限定すべきだ」と明確に語ったのだとすれば(私は聞いていないから正確なことは言えないが)注目に値する。それは「究極の状況」以外では使うべきでない、使わせないと言えるからだ。少なくとも核の先制攻撃は認められないということにもなる。
 これまで日本政府は、核の先制使用も必要だという立場をとってきた。何十年にもわたってだ。正確に言うと、核の先制使用の禁止という提案について反対してきた。何らかの条件下で核の使用を禁止したり制限したりする提案には、とにかく反対してきた。「抑止力が必要ですから」という一言で。
 つまり日本は、どういう状況下では核を使う、あるいは使わない、という議論をしないできた。とにかく日本には米国の核が必要だというだけで、部分的にでも限定的にでも、その使用を制限するような議論には全く耳を貸さなかった。今回の岸田外相の演説は、それを転換させるきっかけになりうる。
 今回の岸田外相の表明が「限定的には核を使う」という方向の話になるのは困る。しかし「一定の条件下では核を使わせない」という方向の議論になるのであれば、核兵器廃絶を願う私たちも議論に参加し議論を深めるべきだ。被爆者をはじめそんな話 は感情的に受け入れられない、というのは分かる。それはそれでいいけれども、核の使用なんて絶対に許せないという感情を持ちつつ、それでも「使用の条件」という議論につきあえる図太さを持つ人間がもう少し増えないといけない。でないと「核はもう使われるべきでない」という国民感情と「米国の核が日本を守っている」という安保論が交わることなく、日本の二重人格は解決しない。

 その上で、核使用の条件が「自衛権に基づく状況」というだけなら緩すぎる。ほとんどすべての戦争が「自衛権」の名の下で行われるからだ。1996年の国際司法裁判所の判断は、核の使用は「一般的に国際法違反」であり「国家存亡に関わる自衛の究極状況では合法か違法か判断できない」というものだった。
 日本政府は、先の岸田外相発言をさらに一歩進めて「一般的には核兵器の使用は禁止される。ただし国家存亡に関わる自衛の究極状況の下についてはその限りではない」というくらいの立場をとれるのかどうか。そのあたりを聞いてみたい。
 外相は「核使用は極限状況だけ」と言うのなら、少なくとも政府は、核の先制使用も認めてきたこれまでの政策を改め、「すべての核保有国がただちに核の先制不使用を宣言すべきである」と公式に表明すべきだ。それができない理由はないはずだ。

2014.1.22
川崎哲

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